2015年08月10日

0.01の理解

 赤ん坊はなんにでも興味をもち、せわしなく動き回っては母を消耗させる。赤ん坊というのは非常に感覚が優れていて、正しく知覚する。だからいろんなことを経験させたほうがいい。これと同じことが青春時代にも起こっている。感覚が鋭敏になって、これまでとは違う自分に変態する。なぜ青春時代に鬱屈するのか、それは新しい自分に更新されて、感じるものすべてが新情報になるからだ。あまりに膨大な情報量をぶつけられると人間は混乱する。たとえば、知らない道を車で運転するとき、いつもより疲れないだろうか。どこを注意して観察すればいいのかわからないから全体に注意しなければならず疲れてしまう。何度も通った道であれば、重点的に注意すればいい箇所がわかっているため疲労は少ない。逆にいうと、注意しなくてもいい箇所については見なくなる。これが私のいうところの鈍磨だ。
 赤ん坊は世界を学ぶために弄繰り回したり、口に入れたりする。青春時代も世界を学ぶために悩んでいる。
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盆休みです

 盆休みの前は久しぶりに感情が煮えていました。
「他人よりも苦労しているのに評価されていない」というイライラに支配されていたのです。
 だいぶ冷静になれた気がしますが、まだかな。評価されるというのは受け身であって、他人の行動によって達成されるものなんですよね。大人になったら他人に期待しないほうがいいですよ。
 偽りでも装っているだけでもいいから、私は安定するべきなのです。なにかを他人に預けるのは安定しない要因になりやすい。



 理解の話をします(今までの話とは無関係です)。
 私は分類を理解だと思い込んでいる節があります。

ぶん‐るい【分類】
[名](スル)事物をその種類・性質・系統などに従って分けること。同類のものをまとめ、いくつかの集まりに区分すること。類別。「五十音順に―する」「―表」


り‐かい【理解】
[名](スル)
1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「―が早い」
2 他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を―する」
3 「了解2」に同じ。


 分けたからといって理解しているわけではないのですよね。分けると分かるは違う。でも分類してしまう。すでに知っているものの中から似ているものを検索して同じフォルダに放り込んでしまう。大まかには分けているけれど、実際にはくっつけているんじゃないのか? 具体的なイメージがあって、ほかのものとは違うと感覚的に理解できないと個別に理解できない。私は中学生時代、期末テストより学年末テストのほうが成績がよかったです。いきなりなんの自慢かと思われるかと思いますけれど、感覚的理解は自転車の乗り方のようなもので、一度覚えると物覚えがいいのです。テストで使えたのは中学生時代までですけれどね。高校以降は一夜漬けのほうが効率がよかったので、ほとんどそれでテストを乗り切りました。高校の勉強は抽象的でイメージが作りにくいのですよ。

 ここから高校生の話です。
 青春時代というのはその晴れやかな言葉の響きとは対照的に、とても鬱屈した精神状態であることが多いです。大人になる準備なのでしょう。芋虫から蝶になるようなものです。いきなり姿が変わるし、行動様式も変えなければならない。戸惑いは必至です。落ち着けといって落ち着けるものでもないでしょう。「今の感受性の高さを利用して貪欲にインプットをし続けろ」と私は言います。ゆうきゆうの心理学マンガなんてどうでしょう、とても中高生向きだと思います。ああそれと、大人なんて子供が考えているほどご立派なものではないです。私も未だに子どもの頃考えていた大人になれなくて、本当にこれでいいのかな?なんて思ったりしています。そういう意味では私は青春時代まっただ中なのかもしれない(さすがに痛いからやめてください)(永遠のセブンティーンだ)(や!め!ろ!)。
 私も高校生時代は悩んだのです。たぶん、どうでもいいことで悩んでいましたけれど、そのどうでもいいことが基盤となって私を支えている気がします。どうでもいいことって、すでに通過してしまったからそう思えるんですよ。あの頃は何度も死ぬことを考えていた。きっと鈍感になったんだろうなあ。死にたくなるような思いでようやく通過して、踏みしめて、見える風景がある。そこに辿り着くまでに鈍磨してしまったけれど、後悔しない生き方ができるといいですね。
 頑固親父って嫌いなんですけれど、頑固になってしまう気持ちがなんとなくわかったりもするんです。来た道を戻る恐怖がわかりますか。死ぬ思いをして、鈍磨して、やっと着いたのが間違った場所だとはなかなか認められません。生き方を否定されることに等しい。まあでも、振り返るのは悪いことではない。来た道を戻るのも勇気です。やってみたら案外二度目は楽だったりします。

 高校生も頑固親父も、道に迷ったら情報収集してみましょう。人間が悩んでいるときって、実は答えはもうできていて、背中を押してもらいたいだけだったりする。そんなときは言葉が自分の気持ちを照らし出してくれる。インプットしてみましょう。文字列の中から最初に見つけた言葉があなたがいちばん望んでいるものです。
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2015年07月27日

こんばんは

 ご機嫌いかが?
 ずっと更新していなかったので手を付けてみました。特に書きたいことがあったわけではないのですけれどね。ずっと続けていたのでこのブログは私の成長記録のようなものだとも思っていまして、空白があるとこのときなにがあったのか思い出せなくなりそうで。

 ブログを書かないのって健全なことですよ。特にこのブログの文章エントリなんかはね。リア充はあくまでSNSを補助的に活用するんです。自己表現として使うのはメンヘラです。メンヘラも増えてきて市民権を得そうな勢いですけれど。

 今日はストパーマッスィーンが届きました。髪がうねっているのです。ブログでは書きましたっけ、私が天パだってことは。髪を伸ばしているところなので、それはもう植物のように繁茂するのです。天パと黒髪長髪は相性が悪くてですね、見た目が汚らわしいんです。わかります? いくら毛が多くてもストーンと落ちていれば格好が付きますし、あるいは茶髪ならまだ幾分かは軽やかに見えます。一度、金髪にしたことがありますけれど(銀髪にするために)、あれはずいぶんと毛が痛みましたからね。ストパーならまだ毛の痛みは少ないかもしれないと願いを込めて購入しました。どうなんでしょうね。一日しかもたないみたいですけれど。

 あとなにか書くことあったっけ。
 メンタルなことを書いておきたい。ネタがない。そうだ、これは疑問なんだけれど、なんで女性は男性と違って未練がましくないんでしょうか。女性は理想を追う論なんてものを以前このブログで書きました。理想ではないと思ったらすぐに切れるのですか。結婚するまでは理想の男性を求め続けようってことですか。最近は結婚の敷居も低くなって、結婚の枠から外れる=離婚するのも容易になりましたね。なにもかもが理想的な相手なんていないと思います。お互いが理想的な人間になろうと努力するほうが結局は理想の関係になれるのではありませんか。我慢できないなにかがあったんでしょうか。
 SMに興味津々の私がこんなことをいうのも変ですね。でもSMだってSが一方的にMを従わせているわけではないですよ。前提の信頼関係がなければ始まりませんからね。でも一方的なSMも興味あるなあ。私は自分でも本心を見失ってしまった人間なので、うまくやれないでしょうけれどね。折れたことのない意思の槍をもつSの貫禄にMは惚れるのかなあ。私はそういうのとは無縁だなあ。

 閑話休題閑話休題。
 人間はみんな自分の人間具合を心配しているのです。なぜなら人間から逸れてしまうと攻撃の的になるから。みんな人間になろうとして、集団から外れた人を攻撃します。攻撃することによって自分は人間側だと安心できるようです。でも、みんなが目指している理想的な人間──すべての多数決で勝てる人間なんていないんですよ。だってそれって、あまりに人間っぽくないでしょう。

 女性への恨み節が混じったエントリになってしまった。私はもっと未練がましくない人間になるべきなのではないか。しかしそれは、平均的な人間になるということでもあるのでは。
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2015年06月16日

がんばるんば

 スゴい人を見たとき、「なーにをそんなにムキになっちゃってんのプッ」と斜に構えて小ばかにするか、「私もあんなふうになれたらいいなあ」と素直に感心するか。
 がんばりってのは誰かに牽引してもらうのがいちばん楽だと思っているので、憧れの人が多いほうががんばれる。がんばりで楽って変かな。前者はがんばらない楽を選択した人だから進歩しない。素直さ大事。
 これは同意してもらえる内容だと思う。

 じゃ、スゴくない人(やわらかい言い方を廃止するとダメな人)のことをどう感じるのが、いちばんいいのかなんてことを考える。
 職場にも仕事ができないダメな人がいて、器の小さい私なんかはイライラしているのですけれど、私より仕事ができる人は私にイライラしている素振りを見せないのですよね。「上の人間」ってのはそーゆーものなんだな、とか考えてしまうのですよ。
 大人だから面と向かって不快を示さないだけ、ってのもあるとは思う。でもそれだけではないような。
 がんばれる人はがんばるためのメンタルをもってる。「下」を見ても「ああはなるまい」ぐらいしか考えず、「下」を見ないようにしている。人間は見ているほうに引っ張られるからねー。引っ張られるなら「上」を見る。
 職場全体の能率を考えるなら、ダメを引き上げる必要性も出てくるけれど、ダメな人は職場全体なんて見えていないから「自分だけ厳しくされている」なんて不平をいいそうだ。がんばりのメンタルをもってない人にがんばらせるのって困難よ。
 スゴいとかダメの基準だって、自分が有利になるように設定しているはずなのだ。ダメだと見下してる相手から別の基準でダメだと見下されているかもしれない。たとえば「仕事は精確さだ」と「仕事は速さだ」とか。「下」に積極的に関わろうとする人は、それによって自分が「上」であることを確認したいダメンタルの持ち主だよねって話です。

 がんばりってのは本人にしかわからなくて、死に物狂いでやっても失敗した人もいれば、かるーく一発クリアできる人もいる。現状の上か下かは基準によっては数値にできるけれど、メンタルはどうやったって計れないのでそこをダメ出ししてはいけない。「仕事を教えているのにメモをとらない」のはメモをとることによって聞き漏らしてしまうリスクを避けたのかもしれないし、がんばりにはその人に合ったやり方がある。

 自分の過去を持ち出して「お前はあの頃の俺よりがんばってない」っていうジジイが多いので辟易としている。その頃とは状況が違うし、お前の過去は美化されてる。「技術が進んで楽になったが、やることが増えた」なんてのはどこの世界だって似たようなものだろう。楽になった部分だけ指してがんばりが足りないといってるような文明を否定する原始人はマンモスの肉でも食ってろ。
posted by clown-crown at 08:56| パリ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月09日

やっぱ嘘

 多数の論理が嫌い、というのは嘘です。
 正しさはぜーんぶ嫌いだ。

 論理的に正しいからってそれがなんなんだよべろべろばー!
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正しさの尺度

 人間はなぜ矛盾した行動をとるのか。
 それはね、正しさの尺度がひとつではないからさ。

 私は正しさを嫌っている。正しさとは、世間だとか良心だとか常識だとか倫理だとかそんなものだ。全部を嫌っているのではないのだ。民主主義の正しさ、多数が嫌い。

 昔のエントリで、自己言及は矛盾が追いかけてくるとかなんとか書いたはずだ。だから自己言及しないようにしよう、と。
 なんで自己言及が矛盾を呼び込むのか考えるに、自分とは特別な基準点だからではないか。特別な基準点であるから、ここではねじくれてしまう。「クレタ人は嘘吐きだ」と言ったとき、すべてのクレタ人は嘘吐きとなる。だが、この発言者がクレタ人であったときすべてのクレタ人を嘘吐きに塗り替えた自らの発言がねじくれて逆襲してくる。「自分で髭を剃らない男の髭を剃る」と言ったとき、自分で髭を剃らない男はこの発言者によって剃られる。だが、この発言者自身には発言がねじくれて返ってくるのだ。

 自分とは特別だ。格別で格段で特段だ。
 正しさとは論理があって初めて現れる概念だ。世間の論理、良心の論理、常識の論理、倫理の論理。ひとつの論理だけ(ここまでしかバックアップがとれなかった)
posted by clown-crown at 01:59| パリ ☀ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

興味関心のグラフ

 理系だからああだとか文系だからこうだとか、なにか言ったつもりになるのはバカの所業なのですけれど、私もバカなのでその分類法を使いますね。

bunnkei.png

 これが文系のグラフです。
 縦軸が知識の量、横軸が知識の幅です。私が勝手に思いついたグラフなので信憑性はどこにもありません。
 赤いのが文系Aくんで緑が文系Bさんです。このふたりは多少のズレはありますが、興味関心の大部分が重なっているので、会話が弾みます。

rikei.png

 こちらは理系のCくん、Dさん。
 文系組とズレはそれほど変わらないはずなのに、重なる部分はあまりないですね。しかし、ズレが一致すれば深い部分まで相互理解ができるのです。

boku.png

 これはどこかの誰かさんです。
 なんだこれ! 変な形してる! これじゃあ一致する相手なんているわけないだろ! そもそもグラフの面積が小さすぎやしないか? どういう人生送ったらこんなグラフになるの! なんのために生きてるの!
posted by clown-crown at 15:09| パリ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

エイプリルフールぐらいは嘘を吐くのをやめよう

 自称「どM」=大抵、偽物。

 おおまかなところはよくいわれる「本物のSM観」なんだけれど、Mから見たSの描写がおもしろかったので引用しよう。

出血大サービス「どS」様は
どんなに怒っていても至って柔和な物腰で、
決して人に悪い印象を与えません。
場合によっては、仏様のような印象すら与えます。
だから、ちょっと会話をしただけだとMっぽく見られがちです。

ですが、本当はいつも心の中で
哲学的に悶々とあらゆることに想いを巡らせています。
でも、自分の本性を曝け出すことに抵抗があるから
優しい「仮面」をはずしませんし、はずそうとしません。
実はとっても繊細でナイーブなのです。


 だってさ!
 ここのところ10年ぐらい男性向けのSM的な商品が増えてきた気がしてたんだけれど(SMよりリョナに近いのかもしれないわからない)、これって若い人たちの趣向なんじゃないのかしらね。若い人たちの傾向って引用部分とダブらない?(そういえば男性がフェミニストをこじらせるとリョナ趣向になる話を聞いた)
 でもこの引用のS評はまだ(本物のSでなく)エゴサドだと思うけれど。間違ってるんじゃなくて不足してるのかな。なんだろうなー。
 SがMに見えるとかMはSっぽいとか、確かにそうかもしれないけれど、修辞ですよ。
 SMと一言でいっても、その関係の形はさまざまで、それをなんとか体系付けたいなと考えているのですよ。そうすればマッチングしやすいでしょ? あと、SMプログラムも作りやすくなる。

 以前にもこのブログでSMプレイの分類した? そうだね。でも、あれまだ決定打って感じしなかったんだよね。
 単純に分けても肉体的なプレイと精神的なプレイがあるけれど、肉体的なプレイも結局は間接的に精神を刺激しているだけなんじゃないかって思うのですよ。精神的プレイは嫌いで肉体的なプレイだけが好きって人は見たことないしなー。

 となると分類なんてものははじめからなくて、深度だけがあるのかなって。SM深度が進むと今まで嫌だったプレイでも快楽を得られるようになるって感じでさ。数直線にしたらおもしろそうだ。M女が好むプレイの平均がとれたら、かなり有用なデータになるのではないかね。

浅い 言葉責め──目隠し──露出──緊縛──浣腸 深い

 みたいなっ!
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2015年03月27日

完璧趣味な乙女たち

 白馬に乗った王子さまなんてのは、恋に恋する乙女を嘲るときに使う安易な常套句であった。最近では嘲りにも使わない廃れて廃れきった表現だ。
 まあでも、表現が廃れたところで乙女心の本質は変わってないな、というのが私の見解である。

 婚活に失敗する男の典型例が『妥協しすぎてしまうこと』で、女は『理想が高すぎること』らしい。おもしろくないですか? おもしろいよね。

 『※ただしイケメンに限る』は、なかなか息が長いネットスラングだね。聞き飽きた。そりゃイケメンのほうがいいだろう。でもな、顔面偏差値に拘るのってむしろ男のほうじゃないの? 鏡に映った自分の顔に吼えるなよ。

 蓼食う虫も好き好きで、顔面偏差値なんて偏差値であって絶対的なものじゃない。
 あばたもえくぼで、ブッサイクだって好きなら気にならなくなるし、なんならイケメンにも見えてくる。

 雰囲気イケメンなんて言葉もあるとおり、イケメンかどうかなんて雰囲気で変わるものだし、女なんて雰囲気で左右される生き物だ。顔の造作を変えるのは難しくても、イケメンを気取るなんてのはそう難しいことじゃない。イケメンだと認知されてくれば、周囲もそんな扱いをしてくるし、そんな扱いを受ければ自信が出てきて顔の造作から変わってくるものだ。万歳万歳万々歳。

 あー違う違う。私はモテるモテないの次元の話をしようとエントリ書いてたんじゃなかった。

 王子さまになる話だ。
 要するにつまり、完全無欠の人間になればいいんじゃないのってことさ。

 そんな人間はいないが。
 いないが、そう錯覚させることはできる。

 前述したように、女性ってのは雰囲気に呑まれやすいものだから、そう振舞えばそうなのだと錯覚してくれる。だってそもそも王子さまを探してるんだし「この人かも」と思わせるのは簡単でしょ(今は私が読者を錯覚させようとしている)。

 女性はドラマが好きで、演出が好きで、理想が高くて、運命を求めていて、ヒロインなんだよ。
 なぜなら、
 女性はぱっとしない現実に鬱屈していて、つまらない生活に飽きていて、しょうもなくくだらないものに囲まれていて、平凡でしかない自分に葛藤を抱いていて、それをなんとかしてくれる存在を欲しているんだよ。

 確固としたものが自分の中にはないから、それを恋人に求めるのさ。どう? わかりやすい?
 わかりやすいものってのはだいたい嘘だよ。
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2015年03月11日

論理ウルフという名の人狼講座サイトはありそうだよね

 新聞のページに記者や識者が自論を繰り出している。その根拠に論理的な裏打ちがなく、常識やら倫理観を下敷きにしたものであるとき、「おバカさんかな?」としか思えず、そう思ってしまうとそれ以降の意見が読み取れなくなる。
 その常識や倫理観を私は共有していませんので。

 近親者であれば固有のルールで繋がることもできるだろう、しかし、誰だか知らない文字だけで表現された相手には伝わらない。そんなときのために論理がある。論理があればなんと機械ともおしゃべりできる。
 強引な意見の押し付けは、却ってその意見が不信を煽ることに気付かないかな。

 そういえば、私も昔はこのブログで嫌韓していましたね。あのときの論理はすべて他所からパクってきた論理ですからね。ダメですね。
 今では嫌韓もずいぶんと広がってネットの一部では共通認識になってきましたけれど、感情だけでバッシングして気持ちよくなるのはやめましょう。
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2015年02月15日

ロジカルシン王

 はじめて告白します。
 実は私、論理思考は苦手です。

 知ってた? 知っていましたか、ナハハ!

 かといって感情の人間でもないです。
 このブログではなにかと怒っていることが多いですけれど、書いてるうちにインフレしてくだけなんですよ。インフレって気持ちいいので、ついついそのまま筆を走らせてしまう。

 たぶん感覚派なんだろうなあ。
 感度が高いわけでもないけどー。

 感覚でしか捉えられないから、磐石で保存の容易な論理思考に憧れるのですよ。私がミステリを好きなのはただの憧れです。自分で書こうとしてみて気付きました、ああ私には無理だって。

 このブログには私が詰まっていますね。
 まとめて読むとバラバラなんですけれど、人間の本性はこーゆーものだと思う。どんな読者を想定して、どんな演出を見せたいのか。無意識に演じ分けるのです。

 あなたがAさんとするとき、BさんもCさんもあなたには対A用の姿しか見せないのです。Cさんが思うBさん像は、あなたが思うBさん像とはぜんぜん違います。

 いろんな人に向けて書きましたし、私自身もずいぶん変わったでしょう。
 馬鹿なこともたくさん書いてきましたけれど、ひっくるめて、いとおしい。電子の世界で形が残っている。

 私はこれからも、せつな、せつなを生きてゆきます。
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2015年01月24日

明けた(新年の挨拶)

 帝国魔導院決闘科がとてもおもしろかったので召喚指揮候補生をやってみたらおもしろくなかった。

 頭を使わないんですよ。じゃんけんじゃないのが売りみたいなこと書いてあったけれど、とどのつまり変形じゃんけんなんですよね。決闘科みたいな、どうやって相手を切り崩せばいいのか考える要素がまったくない。私が惚れたのはそこなんですよ。

 川崎部の人たちの理想のゲームはそういう方向なんでしょうか。
 かっこいいタイトル画面とか音声入りのエンディングテーマとか美麗なキャラクタービジュアル(主要キャラだけ)に注力していくのですか。
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2014年12月24日

バカのゲーム

 Twitterで最近よく見かける「新聞の投書欄に『最近のアニメは女の子がかわいいだけだ。中身のあるアニメを作って欲しい』なんて中国人がいっている」ツイートがある。製作者に言ったって無駄だろうに。需要があるから作っているのだ。



 最近のゲームは(このエントリ内だけですでに3回、最近を使った)、ソシャゲと呼ばれるケータイでできるゲームを指すようになってきた。少し前までは家庭用コンピュータゲーム(おかんはなんでもかんでもファミコンと呼ぶアレ)を指す言葉だった。さらにコンピュータゲームの前はトランプやオセロなどアナログゲームを意味する言葉だった。

 ゲームの意味が変わることで、ゲームの価値も移行している。トランプやオセロは家族や仲間達との団欒を担ってきた。コンピュータゲームに没頭していると暗いヤツだと嗤われた。ソシャゲは暇つぶしのゲームだ。ゲームは能動的にするものではなく、時間が空いたときに時間をつぶすためのものになってしまった。ランキング上位のソシャゲは、絵が美麗で、とても親切だ。バカでもできる。

 世の中はわかりやすいほうへ推移している。頭のいい人間はクレームをつけないから、頭の悪い人間の「わけわかんねーぞ!」のクレームばかり集まるようになり、それに対応し、従えば、わかりやすいものができる。頭の使い方を忘れかねない。振り返ってみれば私もインプットはTwitterオンリ。

 ゲームは趣味だ。趣味は余暇にやるものだ。ゲームで頭を使えないのは、本職で頭を酷使しきってしまっているからだ(そう思いたい)。余裕がなくなってしまった。
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2014年12月22日

見つめ合わないと素直にお話できる

 eikaさんとオフってきた。
 いろいろ遊んだけれど、今回はオフの粗筋を書くのはやめよう。

 誰かと遊ぶときは「目を見て話そう」が目標だったのに、さっぱり忘れていた。いつも通りの目を合わせないcさんであった。よくないね!

 人間関係の作り方のへたくそさを「でも私は人間が好きだから」と言い訳して、根本的な問題ではなく手段を知らないだけだと思い込もうとしていたのだけれど。人間の好悪はぜんぜん問題になっていなくて、問題なのは恐怖なのではないかと最近になって気付きはじめた。

 好きではあるけれど、信じきれていない。踏み込めず、躊躇ってしまう。
 人間はあまりにも膨大すぎる。変な完璧主義の私は人間を理解しきれずに、理解しようとすることを投げ出してしまう。
 今まで私と関わってくれたすべての人間に謝らなければならない気分に陥ったりもする。しかし、彼らはそんなことを望んではいないだろう。自信のなさこそ意思疎通の障害だ。

 暗黒の学生時代に人間と関わることを諦めてしまった私は、いまさら一人前になることもできないだろう。人間関係を結ばなかった代わりに得たものといえば、感覚。別にひとより感度が高いわけではなく、独自の嗜好を深めた結果の感覚。誰とも重なり合うことの少ないひとりだけの感覚だ。
 感覚などただの受信だから、それをなんらかの形で発信しなければ長所にはならない。比較対象の人間がいなければ、私のへんてこな感覚も通常運行でしかない。感覚がおかしいのは意思疎通において短所。

 若い頃より幾ばくかは穏やかになったのを自分でも感じる。それでもまだ足元が確かではない、地盤の緩さを心配して怯えている。この感覚は時間とともに慣れて気付きにくくなるだけで、解消はしないのだろう。

 私は人を理解して、人をより佳くしたい。でも、私のもつ感覚では独りよがりになってしまいそうだ。まずは自分を佳いものにしたまえよ。話はそれからだ。





 追記
 私が理解できる人間はいないから、私が理解できる人間を作ることが理想となっているようだ。これは愛の投影かな?
posted by clown-crown at 00:57| パリ ☁ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

人間という名のモンスター

 11月はまったく更新できなかったよウエーン。
 これからどんどん忙しくなるから、もっともっと遊べなくなるぞー。

 遊戯王のモンスターってさ、プレイヤーの心を表してるって何巻かの単行本で書いてあった。器の遊戯の心はマシュマロンであり破壊竜ガンドラでありサイレント・マジシャンなのだ。

 人間は動物ではあっても動物的ではなく人間的で、人間は人間の顔をしているのは、それは社会性がそうさせているからだ。常識やら秩序やら礼儀やらっていうのは社会を動かすためにある。意思疎通をするためにはひとりひとりの人間を均す必要があって、均すからこそ人間であるといえる。人間から常識やら秩序やら礼儀やらを剥ぎ取れば、それはモンスターだ。

 私はこれまでも自分探しなんてのはバカにしてきた。モンスターを呼び起こしてどうしようってんだ。すごくおかしいんだよ。ああ、言ってしまえばキチガイなんだ。狂っている。それが自分。それが本質。
 モンスターとは感情だから論理とは正反対、言葉とは論理の上に築かれた人工物、なので言葉で感情を丸め込むのは無理がある。他人にはどうにもできない。個の中で押し込めるしかないんだよ。しかし、できないことを欲望するのがまた人間だ。飼い慣らせない極悪モンスターほど、他人に認められて全面的に肯定してもらいたい。
 人間は人間であることに誇りをもちすぎている。危険なほどに過剰な自信だ。自分の中にモンスターが棲んでいることを知りたがらない、いや、認められない。怖いんだよ。たとえばADHDの文章を読んでいて、いくつか共感できてしまうと、恐怖する。これは自分探しと矛盾しない。自分探しに出かける探索者はゴールにお宝があると考えている。実際にはモンスターが眠っているだけなのだ。大人になるにつれ丸くなるのは、モンスターの存在を暗黙のうちに認め、自分が平凡に埋没することに安堵するからではないか。子どもの頃はあんなに、普通であることに反発していたのに。

 全員がモンスターの人狼をやっている。すでに条件をクリアしてゲームには勝利しているのに、それに気付かずに殺し合いをしている。
 勝利しているのだ。私達はてんでばらばらの個性をもった世界にふたりといないモンスターだ。だからきっと私達の幸せは別々のところにあって、そこに辿り着くだけなのだ。ひとつの幸せをみんなで奪い合わなければならないのは、常識やら秩序やら礼儀やらの均された思考が邪魔をしているからだ。感情は個に秘めよ。自分の中でモンスターを純化すれば、鋭き欲望となってほかの誰にも邪魔をされない快楽の地へと導いてくれるはず。

 その欲望がひとりでは叶えられないものだったらどうするんだろう。
 ふたりといないモンスターを探さなければならないのか。
posted by clown-crown at 02:58| パリ 🌁 | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月19日

ラウンダバウト

 ケータイにGPSがついているので迷うことがなくなった。
 電車の乗り換えもどう乗り継げば安くて早いのか一発で分かる。
 人と連絡をとりたかったら電話なりメールなりLINEすればいい。

 ひとりで不自由なく生きてゆける。歩いていて道を聞かれることはもうなんじゃないかな。誰かに世話にならず、誰の世話もしない。若い世代にはこの生き方が普通に見えている。今の時代の正しい生き方だ。

 いつでも切り離せる緩い関係だけがある。けれど、どこかで不足を感じている。まだそこまで心が適応できていない。確固なるつながりを夢想し、酸欠に喘いでいる。夢は夢、夢の中にしかないものだ。

 死の危険がなく、食べ物にも困っていない。状況は幸せなのに、満足を得られない。欲望には際限がないから? 当たり前の幸せは知覚できない。そのくせ、知覚できない幸せを脅かすリスクには敏感で、受け入れられない。

 幸せを知覚できないのをもったいないと思う気持ちが、もはや古いのだろう。どんどん幸せを取り込んで踏み台にする。そこから幸せと感じることに手を伸ばし、踏み台を高く更新してゆく。向上心、なのだろう。

 個人が幸せを追求すれば、多くの場合それは奪い合いになる。個人主義を極めた人間には他人の幸せを慮る能力がない。個人主義はこれからもっと加速する。幸せの交通整理をすべきなのだ。これは絶対に必要。

 人間の種類が増えて、全体の数は減る。
 幸せのマッチングがきちんとなされれば、減少は最小に抑えられる。
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2014年09月26日

他種族を殺すことについて

 韓国の犬食いを馬鹿にするやつは他国から鯨食いに文句言われてもいいんだよな?
 ってのを以前書いた(たぶん)。

 食べることと生きることの関連について『くびき りんね』という小説を登竜門に投稿している。
 収まりの悪い気持ち悪いさを読み手に感じさせる小説だった。結論は出せていない。

 人間を殺すことは違法だ。たとえ法で縛っていなくても、本能は忌避する。
 人間は豚や牛を食べるために殺す。ここにはあまり罪悪感はない。
 虫はうるさいだけでも殺す。魚は食べるためなら殺してもいいだろう。
 曖昧な線引きがたくさんある。

 人間でも虫でもできれば殺したくはない。

 命は重いといいますけれど、それは人間の命だけではないですか?

 たとえば、飼っているポチを殺せばアフリカの子供の命がひとり救えるとしたらポチを殺す?
 私だったら殺さない。人間の命はワニの命より重いけれど、殺さない(ポチはワニの名前です)。
 種族以上に、心の距離が関係している(能動的に殺すのと受動的に救われる違いもあるな)。

 心の距離。なんだそれは。

 ファンタジで考えてみよう。
 チートな主人公が豚っ鼻のオークを死屍累々にしてエルフの王女を救出する。
 どっちも人間ではないのに。悪の命は軽いのかしら?

 そもそも悪ってなんだよ。気に入らないやつのこと? 確かに「死ね」って思うことある。

 ゲームで殺戮するのはいけないこと? 実際の命はなにひとつ失われていないのに。ゲーム世界での情緒を大切にしているの?

 野生の動物はお腹がいっぱいだとそれ以上は狩りをしないらしい。本当かな。

 人間は領土を巡ったり宗教問題を起こしたりして、人間同士で戦争する。→問題の根底は別のところにありそうだ。

 人間はほかの動物に襲われることが極端に少ない。だから想像しにくい。
 殺すかどうかを判断する基準はなに? 感情かな。法律は衝動殺人の抑止に役立っているかな。「人命は尊い」コンセンサスを作る役目を果たしているね。法律がなければ殺人鬼になれる? 人間に似ているけれど人間ではない亜人なら殺せる? 言葉が通じなければ殺しやすいよね。言葉が通じると、たとえキノコでも殺しにくいな。意思疎通できるかどうかが重要なわけ? 相手の心情を忖度してしまうから? 結局、罪悪感を感じにくくしたいだけじゃないの。本来ならなにを殺しても罪悪感を感じる余地があるってことだ。目に見えない虫をつぶしてしまうことを杞憂してちゃ生きていけないわけです。生きるためには食べるわけで食べることは殺すことだし。葉を食べる野菜は殺したことにならないのかな。人間って植物に対しては虫以上に罪悪感を感じにくいよね。精進料理は肉抜き料理。かすみ食ってろ。霊が見える人──特にカルマが見える人に直接聞いてみたい。
 殺す人間は殺される覚悟をしないといけない? 捕食者の身分でも?
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2014年09月25日

物語の維持費

◆c > http://urasunday.com/tpwcw/index.html [2014/9/22 01:43:51]
◆c > これみんなで作ってくようにしたらいいのになんでこんなことにしちゃったんかな。 [2014/9/22 01:44:17]
◆アスロマ > みんなで作っていくようにとはどういう意味でしょう [2014/9/22 01:47:13]
◆アスロマ > 現在の投稿して投票で決めるのはよろしくないということかな [2014/9/22 01:47:46]
◆アスロマ > 漫画がソーシャルゲームのシナリオになるってあまり魅力を感じないなあ [2014/9/22 01:48:45]
◆c > ソーシャルゲームはもっとファミコンのときみたいなカオスになればいいのになー。 [2014/9/22 01:56:16]
◆アスロマ > カオスになるといいですねえ [2014/9/22 01:56:42]
◆アスロマ > ちょっと小奇麗過ぎる [2014/9/22 01:56:59]


 いくらチャットだといっても、これはちょっと散漫すぎやしないか。

 リンク先でどんな企画してるのかっていうと「世界観とキャラクタを用意しとくんで物語作ってくださいね」です。私としては「ふざけんな」です。
 ええっとですね、なにから書けばいいのかな。
 これはとある場所、とある掲示板の話です。「あなたは世界観と設定と物語、それぞれをどのぐらい大切にしますか?」ってスレッドが立った。確か、私もそのスレッドにレスポンスしたっけな。なに書いたか覚えてないけれど。うーん「どれも大切です」って書いた記憶があるようなないような……。
 大切さはどれも同じだけれど、作業手順ってのはあって、なにを書きたいのか決めたらそこから作る。
 私は物語から作る。例外を書いたことはまだないはずだ。そんな私だから「世界観とキャラクタを先に用意しといたんであとは物語だけ作ってくださいねー」が信じられない。
 物語って創作の中心じゃない? 世界観とかキャラクタって外観じゃないか! まあ商業に乗せるゲームだから外観が脆いと即死するってのは理解できるけれど。だったら白紙から作りたいな。
 骨抜きの肉を出して「さあ、あとは骨を入れるだけ」とさも準備は万端です、みたいにいわれても「骨に肉付けするほうが簡単だよ……」って思うじゃん? この喩えが通じるかわからんじゃん?
 それにさ、世界観とかキャラクタって作るとき楽しいとこなんだよな。なんで楽しいとこ取っちゃうの? そこがやりたいんだよ私は!
 特に結論を出さずに、感情的に終わります。



 ファミコンのカオスは先駆者たちの熱きソウルでした。
 アスロマさんがいう小奇麗ってのはきっと「どっかで見たことがあるゲーム」ばかりだからだと思う。個性をぶつけてくるファミコンソフトたちとは対極ですね。
 私だったら「どっかで見たことあるゲーム」って、作ってる間にパッションがなくなりそうだ。私が作る必要ないんだし。
 近頃のコピペ省エネ主義はよくわからない。老いたのだろう。
posted by clown-crown at 03:04| パリ ☁ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月14日

星の王子さまを読んだ。

 読んだ。

 私はもう大人だったからか、わからなかった。
 小さな星を巡る話は銀河鉄道777のようで面白かったけれど。

 わからないからといってほかの誰かの読書感想文を読む気にもなれない。嫌いではないのだ。なにが大切なものなのか、という個人の主観に因るものを「こうだ」と言われたくない気持ちがわだかまっているだけだ。

 そう考えると、私は子どもの頃の気持ちを忘れていてわからないんじゃなくて、私は独自に別のものを導き出しているから星の王子さまを受け入れられない。のだ。

 なんとなく、星の王子さまは読んでおかないといけない気がして読んだだけ。
 今まで読んだことがなかったから。

 本当はSFものが読みたかったのだ。
 存在しない世界の根底から語るようなSFを。
posted by clown-crown at 22:50| パリ ☀ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月17日

楽しい戦い(?)

 RPGのキャラクタのパラメータって多いよね?
 と、藪から棒に同意を求めるclown-crown(仮)。

 HPでしょーMPでしょー攻撃力にー防御力ー、素早さとかー器用さとかー、あと運のよさとかもあるよねー。まーここまではよくパラメータでー。クリティカル率とかあるのもあるんだよ。で、クリティカルは攻撃力の何倍かってのを決めるパラメータとかあって、なんかぐちゃぐちゃよね。結局、重要なのは攻撃力と素早さだったりして。じゃーほかのパラメータはなんのためにあるんだよー、と憤慨してみる。

 攻撃力は物理攻撃力のことで、魔法攻撃力とか魔法防御力とか分けられてるのもあるね。すごい。もっとすごいのは各魔法ごとに抵抗値があったりする。火魔法の抵抗値が高いと夏でも快適なんだろうか。

 抵抗値をたくさん作るんだったら、それよりHPをたくさん作ったほうがリアルじゃないのかな。
 人間にはいろんな死因があって、それぞれからダメージを受けるけれど、そのダメージを受けるのはHP一本ってのはなんだか腑に落ちないのよ。HPが100として、殴打で腹に20ダメージ与えて、切創で腕に20ダメージ与えて、火魔法で20ダメージ与えて、水魔法で20ダメージ与えて、毒で20ダメージ与えても生きてる気しない? 致命傷の1/5を5回だけれど、それぞれ違うダメージだったらなんとかなりそうじゃない?

 ゲームの面白さとしてもさ、勝利条件(敗北条件)が複数あったほうが戦術を考える余地があるんじゃないかな。カードゲームなら、相手のライフポイントを削るのが定石なんだろうけれど、山札切れを狙うこともできる、みたいな。

物理体力:100
熱体力:100
冷気体力:100
毒体力:100

 熱体力と書いたところで思ったけれど、0-50みたいな帯域があって、そこから外れると死ぬってのもいいかも。すべての体力がまったくの無関係ってのも変だから、各体力の積が総合体力とするのもいいかも。

 人間って絶妙なバランスの環境で生きてる。熱だけじゃなくて、酸素濃度とか、重力とか、あとまあいろいろあるんじゃないかな。なにがいいたいのかよくわからないね。私もわかってないよ。
posted by clown-crown at 04:39| パリ ☁ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする