2015年06月16日

がんばるんば

 スゴい人を見たとき、「なーにをそんなにムキになっちゃってんのプッ」と斜に構えて小ばかにするか、「私もあんなふうになれたらいいなあ」と素直に感心するか。
 がんばりってのは誰かに牽引してもらうのがいちばん楽だと思っているので、憧れの人が多いほうががんばれる。がんばりで楽って変かな。前者はがんばらない楽を選択した人だから進歩しない。素直さ大事。
 これは同意してもらえる内容だと思う。

 じゃ、スゴくない人(やわらかい言い方を廃止するとダメな人)のことをどう感じるのが、いちばんいいのかなんてことを考える。
 職場にも仕事ができないダメな人がいて、器の小さい私なんかはイライラしているのですけれど、私より仕事ができる人は私にイライラしている素振りを見せないのですよね。「上の人間」ってのはそーゆーものなんだな、とか考えてしまうのですよ。
 大人だから面と向かって不快を示さないだけ、ってのもあるとは思う。でもそれだけではないような。
 がんばれる人はがんばるためのメンタルをもってる。「下」を見ても「ああはなるまい」ぐらいしか考えず、「下」を見ないようにしている。人間は見ているほうに引っ張られるからねー。引っ張られるなら「上」を見る。
 職場全体の能率を考えるなら、ダメを引き上げる必要性も出てくるけれど、ダメな人は職場全体なんて見えていないから「自分だけ厳しくされている」なんて不平をいいそうだ。がんばりのメンタルをもってない人にがんばらせるのって困難よ。
 スゴいとかダメの基準だって、自分が有利になるように設定しているはずなのだ。ダメだと見下してる相手から別の基準でダメだと見下されているかもしれない。たとえば「仕事は精確さだ」と「仕事は速さだ」とか。「下」に積極的に関わろうとする人は、それによって自分が「上」であることを確認したいダメンタルの持ち主だよねって話です。

 がんばりってのは本人にしかわからなくて、死に物狂いでやっても失敗した人もいれば、かるーく一発クリアできる人もいる。現状の上か下かは基準によっては数値にできるけれど、メンタルはどうやったって計れないのでそこをダメ出ししてはいけない。「仕事を教えているのにメモをとらない」のはメモをとることによって聞き漏らしてしまうリスクを避けたのかもしれないし、がんばりにはその人に合ったやり方がある。

 自分の過去を持ち出して「お前はあの頃の俺よりがんばってない」っていうジジイが多いので辟易としている。その頃とは状況が違うし、お前の過去は美化されてる。「技術が進んで楽になったが、やることが増えた」なんてのはどこの世界だって似たようなものだろう。楽になった部分だけ指してがんばりが足りないといってるような文明を否定する原始人はマンモスの肉でも食ってろ。
posted by clown-crown at 08:56| パリ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月09日

やっぱ嘘

 多数の論理が嫌い、というのは嘘です。
 正しさはぜーんぶ嫌いだ。

 論理的に正しいからってそれがなんなんだよべろべろばー!
posted by clown-crown at 23:33| パリ ☀ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

正しさの尺度

 人間はなぜ矛盾した行動をとるのか。
 それはね、正しさの尺度がひとつではないからさ。

 私は正しさを嫌っている。正しさとは、世間だとか良心だとか常識だとか倫理だとかそんなものだ。全部を嫌っているのではないのだ。民主主義の正しさ、多数が嫌い。

 昔のエントリで、自己言及は矛盾が追いかけてくるとかなんとか書いたはずだ。だから自己言及しないようにしよう、と。
 なんで自己言及が矛盾を呼び込むのか考えるに、自分とは特別な基準点だからではないか。特別な基準点であるから、ここではねじくれてしまう。「クレタ人は嘘吐きだ」と言ったとき、すべてのクレタ人は嘘吐きとなる。だが、この発言者がクレタ人であったときすべてのクレタ人を嘘吐きに塗り替えた自らの発言がねじくれて逆襲してくる。「自分で髭を剃らない男の髭を剃る」と言ったとき、自分で髭を剃らない男はこの発言者によって剃られる。だが、この発言者自身には発言がねじくれて返ってくるのだ。

 自分とは特別だ。格別で格段で特段だ。
 正しさとは論理があって初めて現れる概念だ。世間の論理、良心の論理、常識の論理、倫理の論理。ひとつの論理だけ(ここまでしかバックアップがとれなかった)
posted by clown-crown at 01:59| パリ ☀ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする