2014年12月22日

見つめ合わないと素直にお話できる

 eikaさんとオフってきた。
 いろいろ遊んだけれど、今回はオフの粗筋を書くのはやめよう。

 誰かと遊ぶときは「目を見て話そう」が目標だったのに、さっぱり忘れていた。いつも通りの目を合わせないcさんであった。よくないね!

 人間関係の作り方のへたくそさを「でも私は人間が好きだから」と言い訳して、根本的な問題ではなく手段を知らないだけだと思い込もうとしていたのだけれど。人間の好悪はぜんぜん問題になっていなくて、問題なのは恐怖なのではないかと最近になって気付きはじめた。

 好きではあるけれど、信じきれていない。踏み込めず、躊躇ってしまう。
 人間はあまりにも膨大すぎる。変な完璧主義の私は人間を理解しきれずに、理解しようとすることを投げ出してしまう。
 今まで私と関わってくれたすべての人間に謝らなければならない気分に陥ったりもする。しかし、彼らはそんなことを望んではいないだろう。自信のなさこそ意思疎通の障害だ。

 暗黒の学生時代に人間と関わることを諦めてしまった私は、いまさら一人前になることもできないだろう。人間関係を結ばなかった代わりに得たものといえば、感覚。別にひとより感度が高いわけではなく、独自の嗜好を深めた結果の感覚。誰とも重なり合うことの少ないひとりだけの感覚だ。
 感覚などただの受信だから、それをなんらかの形で発信しなければ長所にはならない。比較対象の人間がいなければ、私のへんてこな感覚も通常運行でしかない。感覚がおかしいのは意思疎通において短所。

 若い頃より幾ばくかは穏やかになったのを自分でも感じる。それでもまだ足元が確かではない、地盤の緩さを心配して怯えている。この感覚は時間とともに慣れて気付きにくくなるだけで、解消はしないのだろう。

 私は人を理解して、人をより佳くしたい。でも、私のもつ感覚では独りよがりになってしまいそうだ。まずは自分を佳いものにしたまえよ。話はそれからだ。





 追記
 私が理解できる人間はいないから、私が理解できる人間を作ることが理想となっているようだ。これは愛の投影かな?
posted by clown-crown at 00:57| パリ ☁ | TrackBack(0) | グチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする